現在、ステージ3の食道がんで闘病中だった秋野暢子さんですが、現在は病気を克服して、やりたいことをして楽しんでおられるようです。
そんな秋野暢子さんの若い頃はどうだったのでしょうか?
▼この記事で分かること▼
- 秋野暢子の若い頃の画像
- 秋野暢子の幼少期は貧乏だった?
- 秋野暢子が女優になったきっかけ
秋野暢子の若い頃の画像
秋野暢子さんの若い頃の写真が美人すぎるって噂だけど、どんな感じだったのかな?
秋野暢子さんは今も美しい方ですが、若い頃の画像を見ると、目力があり非常に美しいことが分かりますね。
身長も170cmと長身で、当時の芸能人の中でも抜群のスタイルを持っていました。
うわー!すごい美人さんだね!
表情も素敵で息を呑むような美しさってこのことだね♡
しかし、秋野暢子さん曰く、親戚の中では自分が1番ブスだったとのこと。
このエピソードは、秋野家の顔面偏差値が高すぎて、他の方が芸能界入りされてないのが不思議なぐらいですね。
秋野暢子の若い頃の美しさは多くの人々に認識されており、現在でもその美貌は語り継がれています。
しかし、秋野暢子さんは幼少期には辛い思いをした過去もあります。
秋野暢子の幼少期は貧乏だった?
秋野暢子はどんな幼少期だったんだろう?
女優の秋野暢子さんは1957年1月18日に大阪・ミナミの呉服屋の長女として生まれました。
元々は裕福な家庭で育ちましたが、5歳の頃に父親が知人の保証人になったことで借金を背負い、店も家も失ってしまいました。
その結果、家には負債者が押しかけるようになり、秋野さんは男性に恐怖を感じるようになりました。
この影響もあり、小学校5年生頃までは内気で引っ込み思案で人前に出るのが苦手だったそうです。
そんな秋野暢子さんでしたが、演劇に興味を持ったのは小学5年生の頃でした。
担任教師から学芸会で面白い役を与えられたことで性格が前向きになり、芝居に興味を持つようになりました。
ここで秋野暢子さんの性格は前向きになり、明るさを取り戻せたんだね!
取り戻せたのは性格だけでなく、借金を負ったことで、大人が怖く吃音を患うことになっていましたが、演劇を通じて吃音を克服することができたそうです。
6年生の頃には、5年生と担任が同じだったため、その教師が両親に進路相談をすることになりました。
その際に、担任の先生が「自己表現は下手だけれども、演劇が盛んな中学校に入れたらどうですか?」と助言したことで、四天王寺中学校への進学を決めたそうです。
このように、秋野暢子さんの幼少期は裕福な家庭から一転して怖い思いや辛い思いもたくさんしていました。
しかし、演劇との出会いを通じて前向きな性格を育み、女優としての道を歩み始めたのです。
秋野暢子が女優になったきっかけ
中学から演劇部に所属し、その後演劇の大会で地区予選から勝ち上がって全国大会に出場しました。
そして15歳頃、大会審査員だったテレビ局関係者や劇団主催者などから
「この仕事をアルバイトみたいにしてみない?」
と誘われたそうです。
学校に通いながらNHKのラジオドラマや関西ローカルのドラマ『部長刑事』などにバイト感覚で出演しました。
これが秋野暢子さんの女優としての1歩が始まったんだね♪
その後、1974年に晴れてNHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』でウェイトレス役としてデビューしました。
さらに、1975年にはNHK連続テレビ小説『おはようさん』でヒロイン・殿村鮎子役に抜擢され、本格的に女優活動を開始しました。
1976年にはTBSのドラマ『赤い運命』で山口百恵さんと共演し、山口さんをいじめる役を演じて注目を集めました。
その後、1980年代には歌手活動やバラエティ番組への出演も増え、多方面で活躍しました。
まとめ
いかがだったでしょうか?
秋野暢子さんの若い頃の写真は、想像以上に美人でした。
ご家族揃っての写真が見てみたいですね。
現在は、食道がんの治療も終わられゆっくり過ごされたいるようですが、お元気に過ごされることをお祈りいたします。